「 水音」徳沢愛子著

二十年ほど前から月一回老人ホームのお掃除に行っている。用事があって行けない日も あるが、そうでなければ自分の老後の学びの機会として、喜んで出かける。勿論ボランテ ィアである。

今日は北陸には珍しい冬晴れであった。奉仕活動するには良い日だった。夫と二人で出 かけた。長い廊下をモップがけする。埃がついたモップを払うと、夫がほうきで掃く。我々 老夫婦もいつ何時老人ホームにお世話になるかもしれない。元気のある今、お掃除できるしあわせ。 元気そうなおばあさんが廊下の向こうからやって来られた。「お元気ですねェ」、そう声をかけると、親しげに私の両手を握られた。次の瞬間、両手で顔を覆い、「くくっ」と泣か れたのである。私はびっくりした。

「お元気ですね」と声をかけ、肩に手をかけた、ただそれだけのことなのに。そうして 私の右手をとって、手の甲に強烈なチュッをしたのである。

ああ、そのおばあさんはこんなにも人恋しかったのだ。愛に飢えているのだ。老いるこ との切なさが私の胸にジンと迫った。

<みんな死んでしまうことの水音>山頭火の句を私は思い出した。世の中には、老いて みなければ、わからないことがいっぱいある。衰えていく肉体のこと、気力のこと、物忘 れのこと、近づく死のことなど、惻惻と迫ってくる。私はその時、霊の耳に彼女の心の水 音を聞いたのである。それは真夜中、暗い台所でぽとりぽとりと水道から漏れ落ちる水音 のような、深い孤独を纏っていた。